トーマス・アルヴァ・エジソン 1847年2月11日は、生涯におよそ1,300もの発明を行ったアメリカの発明家。起業家。
「発明王」の異名を持つ。研究所が置かれたニュージャージー州のメンロパークにちなんで、「メンロパークの魔術師」とも呼ばれた。リュミエール兄弟と並んで映画の父とも言われている。ゼネラル・エレクトリックの雇われ社長でもある。このほか、自らの発明の権利を守るため訴訟を厭わなかったことから「訴訟王」の異名も持つ。
日本では長らく「エジソン」という表記が定着していたが、近年は "-di-" という綴りを意識して「エディソン」「エディスン」と表記する場合もある
エジソンは1847年2月11日にミランで父サミュエル・オグデンJr.と母ナンシー・エリオットの間に生まれた。エジソンは7番目の子供で、7歳の時に家族はポートヒューロンに移った。
小学校に入学するも、教師と馬が合わず中退した。背景としてエジソンがLD、ADHDを併せ持っていた事が考えられる。勉強は小学校の教師であった母親に教わった。母は教育熱心だったらしく、エジソンは家の地下室に様々な化学薬品を揃えてもらっていた。
1877年に蓄音機の実用化で名声を獲得。ニュージャージー州にメンロパーク研究室を設立し、集まった人材を発明集団として機能させるべく、マネジメント面で辣腕を振るった。後年の伝記ではこれを「天才の集合」と呼んでいる。この研究所で電話、レコードプレーヤー、電気鉄道、鉱石分離符、電灯照明、等を矢継ぎ早に商品化した。なかでも注力したのは白熱電球であり、数多い先行の白熱電球を実用的に改良した。この特許の有効性について訴訟が起こり、裁判で特許が有効と判定されるまでに時間がかかった。一方で白熱電球の売り込みの為の合弁会社を成立。直流の電力を供給するシステムを確立させる。
1887年にウェストオレンジ研究室に移る。ここでは動画撮影機キネトグラフを発明した。
鉱山経営等にも手を出すが失敗。高齢となって会社経営からは身を引くが、研究所に篭り死者との交信の実験を続ける。研究所が火事で全焼し約200万ドルの損害を蒙ったが、臆せずその後も死者との交信についての研究を続けた。
1931年10月18日、84歳でその生涯を終えた。
息子は政治家のチャールズ・エジソン。
自動車王のヘンリー・フォードとは生涯の友人であった。フォードは1967年、エジソンは1969年に、それぞれ自動車殿堂入りをしている
エジソンの功績は類稀なものがあるが、改良発明も多く、盗作疑惑のあるものや、誹謗中傷を受けたものも多い。これは彼自身の性格に起因する面がある一方、エジソンの遺産相続の紛糾に起因する面もある。
発明の中には、エジソンがゼロから思い付いたものなのか、他人のアイデアを改良したものであるのかが、既に分からなくなってしまっているものもある。チャールズ・ケタリングの「成功の99パーセントは、いままでの失敗の上に築かれる」という言葉から分かるように、エジソンの発明の「本当に最初の」発明者を決めるのは困難である。
電話機の発明はアメリカ大陸における電信事業を独占していたウエスタンユニオンに依頼されて着手。その結果、電話に関する特許を得たグレアム・ベルとその後援者たちと対立するに至る。送話器において音声の変化を捉えるためにベルの電磁石に換わって炭素粒を用い、また誘導コイルにより送話距離を伸ばしたのはエジソンの功績である。長距離で利用するためには、リー・ド・フォレストの「三極真空管」まで待たなければならなかったが、「エジソン効果」がなければ真空管の発明が遅かったのはいうまでもない。エジソンはベルが電話機の発明者とされるのは最後まで納得がいかなかったとされる。
一方で無線機の発明については、あっさりとグリエルモ・マルコーニに手柄を譲っている。この点は輸出も狙っていたエジソンは上流階級出身者でイギリスやヨーロッパの官庁に強いコネクションを持つマルコーニと正面から喧嘩をしたくなかったとも、元々アマチュアで変調などについても知識の浅いマルコーニを敵とすら見ていなかったともされている。そもそも電波についてはマックスウェルが予言しヘルツが実証した時点で世界中で開発ブームとなった事から順番争いよりも関連特許取得の競争が重要でありこの点はマルコーニもエジソンもどちらも資本家であることから認識を同じくして、どちら側も買収戦争に参加している。
一般にはエジソンが白熱電球の発明者であるという話が広まっているが、白熱電球を発明したのはJ.W.スワンである。エジソンはフィラメントに竹を使った功績だけを主張しており、結局はタングステンに取って代わられる。エジソンは「電球の発明者」ではなく、電球を改良して「電灯の事業化に成功した人」と言うべきだろう。エジソンは配電システムを構築し、トースターや電気アイロンなどの電気製品を発明した。このために広く家庭に電気が普及したのである。
映画の発明においてはリュミエール兄弟やオーギュスタン・ルプランスに遅れをとるも、ジョージ・イーストマンの協力により、セルロイド製の長尺フィルムを手に入れる事により巻き返す。エジソンとエジソンの研究所のスタッフが規格化した35mmフィルムのスプロケットの規格は現在でも使われている。この点はGEの資本力が映画業界にも及んでいたことの証明でもある。
英単語の "HELLO" を発明したのはエジソンだという説がエジソン信奉者によって唱えられたことがあったが、これより以前のマーク・トウェインの作品で既にこの語が用いられている。 "HELLO" は19世紀前半に使われるようになったが、電話の挨拶にひんぱんに使われるようになり、1883年には辞書に載った。
(ウィキぺディアから参照しています)